TANNOのヒストリー

丹野設備工業所の50年とこれから

黎明
1975〜
「家賃1000円の納屋」から広がった信頼
丹野設備工業所の創業者・丹野猛(現・会長)。
大企業の正社員という恵まれた環境に自ら別れを告げ、
家賃1000円の納屋から事業を広げていった。
黎明
黎明

丹野設備工業所の創業者・丹野猛(現・会長)。その挑戦は、大企業の正社員という恵まれた環境に自ら別れを告げる「脱サラ」から始まった。高校卒業後に大手エネルギー系企業へ就職した猛。首都圏各地のニュータウンにLPガスを供給する事業に携わり、配管工事の重要性を知ったという。

「安定したガス供給は、確かな配管の技術と知識が支えています。当時はニュータウンが発展を続け、需要は旺盛でした。それなら、自分も配管のプロとして独立してやっていけるんじゃないかと思ったのです」

神奈川県平塚市にある配管の専門学校へ通うため、あっさりと会社を退職した。当時の猛は25歳で、すでに結婚し2人の子どもにも恵まれていた。失業保険を受けながら「できるだけ家賃を抑えられるように」と新居を探し、運よく伊勢原市内の県営住宅に入居することができた。その建物は現在の社屋に隣接し、今も集合住宅として機能している。当時はまだ周辺にほとんど住宅がなく、一面のブドウ畑が広がっていたという。

大手企業の正社員という立場を捨てることに、家族は反対しなかったのだろうか。妻の光子(現・相談役)は「予想していました」と笑顔で振り返る。

「結婚前から常々『いつかは独立したい』と言っていましたから。会社を辞めると聞いたときも『ああ、そうなのね』と(笑)。私はそれまで銀行勤めをしていたので、経理など裏方の仕事で支えていこうと決めました」

こうして、1975(昭和50)年に丹野設備工業所を設立。当初は自宅を事務所代わりにして、真面目にひたむきに地元の仕事をこなしていったが、やがて資材の置き場所に困るようになってしまう。そんなときに助け舟を出してくれたのは地元で代々続く地主さん。ブドウ畑の一角にある納屋を、月額1000円という破格の賃料で貸し出してもらったという。「あのご縁がなければ、商売は厳しかったかもしれない」と猛は語る。

「地元の名士である地主さんとのお付き合いがあることで、『丹野は間違いないだろう』と信頼してもらえるようになりました。銀行さんに顔をつないでいただいたこともありましたね。どんなに感謝してもしきれません」

発展
1978〜
増え続ける仕事と仲間たち
「安く、丁寧に、たくさんの」をモットーに、
地元の配管・修繕工事を次々と受注。
あふれるほどの仕事に比例して若い社員も増え続け、組織が拡大していく。
発展
発展

創業以来、地元の一般個人から水道の配管・修繕の案件を受注し、大手企業の下請業務も増えていった。「とにかく安く、丁寧に、たくさんの」仕事をしようと奔走する日々。時を同じくして、伊勢原の街は開発が進んでいった。

「どんどん住宅が増えていくなら、配管工事の需要も高まっていくはず。そう思って地元の不動産会社への営業回りを続けました。『水道設備屋さんが営業に来るなんて初めてだ』と言われたこともありましたよ」

そう振り返る猛は当時、朝一番から現場へ出て、その合間に役所へも顔を出し、夜中まで図面を描くという多忙な毎日を過ごしていた。

同時に「管工事指導員」の資格も取得し、母校である専門学校で教員としても活躍。そこで出会った若者たちが、社員としてどんどん入社してくるようになったという。世はオイルショック直後の不景気に見舞われ、大企業の大型リストラの話題がニュースを賑わせていた。

「そんな時代だからこそ、人を大切にしなきゃいけないと思っていました。若い人が安心して働けるように社会保険加入制度を整えたのもその頃です。固定の休みをちゃんと設けて、教育にも力を入れて」

不景気の中でも、丹野設備工業所は常にあふれるほどの仕事を受注していた。それに呼応するように、社員もどんどん増えていった。

変革
1997〜
失われた20年に進められた大変革
バブル崩壊後の失われた20年。
長男の徳人(現・代表取締役)が経営に加わり、営業エリアの拡大や
働き方改革の実行など、新たな施策を次々と進めていった。
変革
変革

「失われた20年」といわれるバブル崩壊後の暗い世相のまっただ中。丹野設備工業所でも、顧客の要望で引き下げられた低単価の案件を無理に受注するような状況が続いていた。東京の大手設備会社へ武者修行に出ていた長男の徳人(現・代表取締役)が父親のもとへ戻ったのは、そんな1997(平成9)年のことだった。

「バブルの頃の感覚のままでは経営していけないな、と思っていました。現状の体制では売り上げを伸ばせる見込みがないこともあり、会社全体の抜本的な改革が必要でした」

徳人はそう述懐する。幸いなことに、父・猛はバブル期の狂乱の中でも浪費に走ることなく、会社はまだ十分に資本的余力を保っていた。これが徳人を新たなチャレンジへと向かわせる原動力となる。

伊勢原市周辺だけでなく神奈川県内全域へ営業エリアを広げ、新たに大手ゼネコンとの取り引きも始まった。これが数々の大規模案件を手がける現在の丹野設備工業所へとつながっている。

大型受注によってもたらされた利益は、組織改革や社員の育成へと投資していく。業界に先駆けて2000年にISO認証を取得。外部の専門家を交えて働き方を見直し、3年がかりで生産性を向上させるプロジェクトも進められた。

「みんながより働きやすくなるための環境作りにも、外部の知恵を借りて取り組み続けました。振り返ってみれば、うちでは随分前から働き改革をしていたんですよね」

未来
2019〜
社会になくてはならない存在として
地元・伊勢原市を代表する企業となった丹野設備工業所。
何よりも人を大切にするという志を受け継ぎ、
「社会になくてはならない存在」であり続ける。
未来
未来

変革の季節を経て、地元・伊勢原市を代表する企業の一つとなった。現在では徳人の弟・智徳(常務取締役)も会社経営に加わり、ともに「これからの丹野設備工業所」を構想している。

「社内ではいつも『社員の幸福』を考え、発信しています。ありがたいことに、この会社には『本気でものづくりがしたい』『インフラを通して人々の生活を支えたい』という高い志を持つ人が集まっている。そんな風に仕事の喜びを実感できる組織として成長していきたいですね。ただ給料が高いとか、福利厚生が充実しているというだけでは、仕事の喜びにはつながりません。社員みんなが日々、『本当に楽しい8時間を過ごせる』場所であるということ。それが目標です」

智徳の思いにうなずきながら、徳人も未来への構想を話す。

「そのために大切なのが『採用』『教育』だと考えています。父もずっと重視してきたことですね。新卒も中途も変わらず大切に育て、人の

才能を開花させていきたい。以前の職場では環境や人間関係が原因で活躍しきれなかった人も丹野では活躍できる。そんな場所にいていきたいんです」

丹野設備工業所の未来を担う2人の経営者は、ともに「人への思い」を語った。その根底にあるのは、この会社の50年を支えてくれた地域社会への感謝の念だ。

「水道や空調などの暮らしのインフラを支える会社として、私たちはこれからも『社会になくてはならない存在』であり続けたいと思っています。常に社会とつながり、必要とされている会社。水や空気を守り、『あなたたちがいなければ困る』と言われる集団。そんな組織を、仲間とともに実現していきます」

徳人はそう締めくくった。